エピソード(こころ医者講座)

 

こういうことがありました。

 自分が天皇だと称する患者さんがいました。Aさんと呼んでおきます。Aさんを初めて観た時は、ぼくはまだ精神科医であり、《こころ医者》の自覚がありませんでした。自分では、なかなか頭の働きのいい医者だと思っていました。

 

 彼を診察し始めて直ぐの頃、自分が天皇だと言われて、

「あ、この人は、きっと誇大妄想だな。誇大妄想の原因になる病気は?梅毒はどうだろう?血液の検査で、梅毒の反応は出ていなかったな。次に老年性痴呆(現在の認知症)。この患者の年齢は?まだボケ年齢までいっていないな。それに発病は大分前らしい。となると残るのは、妄想型の精神分裂病(現在の統合失調症)か」

 

 と頭の中で推理した末に断定しました。それなら、あの薬がいいだろう。そこで診察を終え、

 

「はい、この薬でものんでいてください。じゃ、次の人」

 と、この患者さんに診察室から出ていってもらおうとしました。もう話は十分に聞いた、という気になったのです。もちろん患者さんは、もっと話していたかった。でも、こっちは診察するのが目的で話を聞いているつもりですから、それにはこれで十分と考えたのです。

 

 しばらくしてから、偶然、もっと深く、この人の話を聞く機会がありました。

 彼には、病院の職員にボーナスをくれるというおかしな症状がありました。行動としての症状です。紙切れに、数字を書いて、黙って僕たちのポケットに入れてくれるのです。そんなことをするのは、彼だけです。

 

 僕が彼からもらったのは5万でした。「なんだこれ」とつぶやきながら数字の書かれた紙切れを見つめている僕に、「Aさんからのボーナスですよ」と後ろから姿を指差しながら僕に教えてくれたのは若い看護婦さんでした。今は看護師さんと呼ぶようになりましたが、昔の話なので、当時の名前で呼びます。

 

「君ももらった?」と彼女に聞くと、「ええ、30万もらいました」と嬉しそうな顔で答えます。僕は憤慨しました。侮辱されたような気がしたのです。

 大学を出て、医学博士の医者の僕にくれるボーナスが「5万」で、若い、学校を出たての、経験未熟な18歳の看護婦さんに「30万」。それはないよ。おかしい。僕がつぶやいていると、その看護婦さんは、笑いながらいいました。

「先生、本人に聞いてごらんなさいよ。それが一番近道だわ」

もっともです。

 僕は、彼に聞いてみることにしました。

 

「ボーナスをありがとう。だがなぜ、僕に5万で、あの若い看護婦さんに30万もやるのだね」

 自称天皇は礼儀正しい口調で答えました。

「あれは私の気持ちで、病院が出すボーナスとは関係ありません。ところで、先生は、私に何をしてくださいましたか」

「病院では、治療が一番大切な仕事だ。あなたを診断して、お薬を出してあげているだろう。あなたの薬、あれはとても高い薬だ。僕が処方を書かねば、その薬をあなたは飲むことができない」

 答えながら、恩着せがましいな、と自分でも思いました。彼は静かに答えます。

 

「でも、あの薬は、私が欲しくて飲んでいるのではありません。看護婦さんが口を開けさせ、無理やり飲ませるのです。できたら、止めてもらいたいくらいです。それに、あの薬は本当に効いているのですか」

 ぼくはゆっくりうなずきました。

「効いています。世界でも効き目の認められた薬です」

「でも、私には効いていないのではないですか。効いていたら、もうとっくに退院になっているのではないですか」

 

 そう言われて、僕は思わず「うーん」と、うなってしまいました。そして理解したのです。薬が効いていることは確かですが、それは彼を扱いやすい患者にしたという意味で効いていたのです。興奮して大声を出したり暴力的になったりしたそれ以前の彼と比べて、おとなしくなり、話も聞く管理しやすい患者になっていました。その点では、効いていました。非常に効いていました。

 

 しかし、薬は飲むと眠くなったり、だるくなったりします。患者さんには、不愉快な薬です。だから、拒否する人もたくさんいる。それを、看護婦さんたちに命じて、無理に服用させていたのです。

 

「じゃあ、あの30万あげた看護婦さんは、あんたに何をしてくれたの」僕は聞かざるを得ません。

「あの人は、年にしてはよくできた人です。私が風邪をひいて、頭痛がひどくて苦しんでいたら、額に手を当てて、検温して、「わあー、すごい熱。頭も痛いでしょう」と氷枕を作ってきてくれました。これがはなはだ気持ちよかった。とても楽になった。

 そして「食堂にいかなくていいから」といって、ベットまで食事を運んできてくれました。その食事を見ると、「このおかずも、御飯も硬そう。熱がある時だから、もう少しやわらかく煮てあった方がいいかな」と、煮てきてくれました。どちらに30万やりたくなると思いますか」

 

 彼はそう答えました。僕は、自分は、患者さんを正しく診断はしたが、患者さんの気持ちを、ぜんぜん理解してあげられなかったことを悟りました。そんな自分が、医者として社会的に合格していても、人格的には、大いに未熟であったことを認めざるを得ませんでした。

 

 自分の立場からしか考えられない人間より、人の立場に立って考えられる人間の方が、より成長し、より大人であることは明白です。それをより好ましい人格といってもいいでしょう。

 医療はチームの仕事であり、医者とか看護師とかは、仕事上の役割の違いだと考えられる人と、医者は地位の点で上であり、看護師はその命令を受けて仕事をする部下だとしか考えられない人と比べれば、前者のほうが大人だと言えるでしょう。そうしたことが分かり、自分のこころの未熟さが、その時はじめて読めたのです。

 

 未熟な人格の《こころ医者》と、もう少し大人になった《こころ医者》と、どちらがいいでしょう。答えを聞くまでもありません。

 この患者さんから見れば、それまでの僕は、どれだけ尊大な、医者は偉いのだ、と胸を張って、そっくり返った、滑稽な人間に見えたでしょう。そう思わずにはいられませんでした。

 

 こんなふうに、患者さんのこころを読んでいるうちに、いつの間にか、自分のこころを読んでしまっていることもあるのです。それが自分自身の《こころの成長》に役立てられるというわけです。

 

 今、自分を見つめると、自分が5万しかもらわなかったことに憤慨した過去の自分がおかしいですね。そもそも紙に書かれた数字にすぎず、それでなにかが買えるというものではないのです。

 でも、若い、学校出たての看護婦さんに、数字のうえで負けたような気がして、悔しかったのですね。