テクストⅠ

 

 こころの中の疑問と不安がある一定量以上溜まると、いつの間にか「なだいなだ」を読んでいます。読まずにはいられない、と言ったほうがいいかもしれない。心理学関係の本や精神科の医師の書いた本なら他にもたくさんあるが、「なだいなだ」はどこか違う。

 一冊読み終えると、疑問が解けるわけでも不安が消えるわけでも葛藤がおさまるわけでもないけれど、なんとなく気持ちがシャンとしている。不安を消すことはできないが、不安は自由の道連れなんだよ、と「なだいなだ」は言う。

 私は「どうせなら不安をなくそうとするより自由を活かすことにエネルギーを向けよう」と思う。

 そしてこころが自由になればなるほど、自分の中の不安を引き受ける容量も自然と大きくなることを感じる。

 

こころを育てる 杉林がいいか雑木林がいいか 

 

 ある日のこと、夢の中で「杉の精」と名のる不思議な老人に出会った。

 

教育にいちばん必要なもの

 

 現在必要なのはコンピュータ時代に適応する知力を与えることではない。むしろ欲望をコントロールし、パニックにおちいらないように感情をコントロールできる知力を身につけさせることだ。ところが現代の教育にはそれが欠け落ちていると老人は言う。

 

欲望の暴走をとめること

 

 少し部屋の空気を入れ替えようとして、ぼくは窓を開けた。そのとたんに、盛大なくしゃみが飛び出した。老人は心配そうにこちらを見て言った。

 

「あんたは、まさか杉花粉症ではあるまいな」

 

『それが、じつはそうなんです。昼間はくしゃみを連発し、夜は鼻づまりで眠れず、困ってますよ』

 

「それは気の毒じゃな。それを聞くと杉の精のわしは肩身が狭い。テレビで杉花粉情報などを見せられると、身の置きどころがない」

 

 老人はほんとうにすまなそうに、言ったので、ぼくは老人を慰めずにはいられなくなった。

 

『いや、あなたが肩身の狭い思いをする必要はありません。人間の、身から出たさびです。花粉症は大気汚染もからんでます。なによりの証拠に、杉のない先進国でも、花粉症は起こっているのですから』

 

 ぼくがそう言うと老人はほっとしたよだった。そして元気を取り戻すと、ぼくに言った。

 

「今の資本主義は、ブレーキのついていない車のようなものじゃ。もっと利益をと、ひたすら利益だけを求めて暴走している。花粉症も公害もその結果じゃ」

 

『同感です。しかし、資本主義は、もともと資本の論理で動いているだけで、結局は人間の責任ですよ。人間の欲望が資本主義を暴走させているのです』

 

「よくも言ってくれた。そう言ってもらうと、話しやすくなる。その現状を見れば、これからの教育になにが求められているか、わかるじゃろう」

 

『ええ、これまで資本主義社会になってから、欲望にアクセルはつけられましたが、ブレーキの方はつけるのを忘れていたようです。だから欲望にブレーキをつけることでしょう』

 

「その通りじゃよ。わしの考えではもう一つある。現代人はすぐパニックを起こす。ノストラダムスの予言だなどというまやかしに、手もなくだまされて、パニックになり、怪しげな宗教や理論を簡単に信じてしまう」

 

『ええ、同感です。しかも能力の高いエリートまでが簡単にだまされる』

 

「それならわかるじゃろう。今、教育に必要とされているもう一つがなにかが。簡単にパニックにならない人間をつくることじゃ」

 

『わかりましたよ。でも口では簡単に言えますが、どうしたらいいのですか。具体的なやり方がわからなければ、画に描いたもちのようなものですよ』

 

 ぼくは口をとがらせて言った。

 

想像力の訓練

 

老人は笑った。

 

「その通りじゃ。しかし、そう難しく考えるな。わしが、こんな話をすると、このじいさん、道徳教育の復活を考えているんじゃないか、と早とちりするものもいる」

 

『じつはぼくも、そうではないかと』

 

「疑ったというのかね。無理もない。欲望にブレーキなどと言えば道徳のにおいがするからな。もちろん、これまでのように、道徳のお説教をして、ブレーキをかけろとは言わない。そんなことやっても無駄じゃ。我慢しろと言って我慢させていると、我慢しなくていいとなったとたん、欲望がかえって暴走するのが落ちじゃ」

 

『じゃあ。どうすればいいのですか』

 

ぼくが困った顔をしていると、ニッコリして言った。

 

「それはだな、想像力の訓練でやるのじゃよ」

 

『想像力の訓練?そんなことで欲望にブレーキがかかりますか』

 

「簡単すぎてビックリしたかな。それじゃから、これまで見落とされてきたんじゃよ。たとえば(相手の身になって考えてごらんなさい)と説教したらどうじゃ。まだ小さい子どもにはわからない。わかるくらいまで大きくなった子どもは、ああしろ、こうしろと言われると反発する。そういう年頃じゃ。だからこれまでの道徳教育は成功しなかった。親や先生の見ている前ではやらないが、陰では悪いことをする偽善者をつくるだけじゃった」

 

『その通りです』

 

「心理学者のあんたなら、わかるじゃろう。まだ小さい子供に、(今ごろ、○○君、君に相撲で負けて、がっかりしているかなぁ)と言えば(きっと悔しがっているよ)と、答えるもんじゃ。つまり子どもは自然と他人の気持ちを想像する。これでいいのじゃよ。こういう訓練をしていれば、自分の欲望が相手を傷つけそうになったとき、その場面を想像して、ブレーキをかけるようになる。これなら小さな子どもにも、ごく自然に教育ができる」

 

『なるほどそうですな。これまでは、ただ、お説教をすればことがすむと思っていたから、無力だったんですね。通達行政なんて、この無力なお説教の最たる見本ですね。恐れ入りました。あなたもなかなかの心理学者ですな』

 

ぼくは精神科医のお株を奪われて苦笑した。老人は続けた。

 

負の感情教育

 

「これまで、感情教育のプログラムというと、特別時間をつくってやるものと考えられてきた。ところが、実際には、知らぬ間に(負の感情教育)をしてきたのじゃ」

 

『負の感情教育?』

 

「好ましくない方向への感情の誘導じゃ。たとえば算数だ、漢字だ、理科だ、と知的能力を高める勉強をさせる。しかも競争という手段を勉強の刺激に使う。そのために、喜怒哀楽の感情が(勝った)(負けた)だけに結びつけられてしまう。

(勝った)は(ざまあ見ろ)に(負けた)は(悔しい)に。そして、(今に見てろ)の方向に伸ばされていく。こうして自己中心的な傾向は、いやがうえにも強められる。これでは子どもはなかなか大人になれない。じゃが、(負の教育)ができるなら、(正の教育)もできるはずじゃ」

 

『なるほど、他人の置かれた状況や他人の感じている感情の想像の訓練は、知的訓練なんだけど、感情教育にもなるというわけか。そうすれば、自己中心的な視線が、外に向かっていくというわけですね。本職が、感心してばかりというのも情けないな』

 

 ぼくは自嘲的に言った。それを聞いたか、聞かなかったか、老人は表情を変えずに続けた。

 

「感情教育に特別なプログラムはいらない。すべての教育の場面が感情教育に結びついているのじゃよ。毎日の算数や地理や国語の授業のときにも、感情教育の機会をねらっていて、よい機会があればそれを逃さない。その程度で十分じゃよ。これまで情緒教育の必要性が叫ばれてきたが、あまり実りがなかったのは、わざわざ特別な時間を増やして教えるという、ばかなことを考えたからじゃ。知らず知らずの(負の感情教育)をしなくなるだけでも、影響は大きい」

 

『なるほど』

 

「感情なんてさりげなく身につけさせていくものじゃよ。

ぼくはうなずいてばかりいた。

 

情緒の価値観

 

 老人はおまえは調子に乗せるのがうまいな、とか言いながら、勝手に調子に乗って、続けた。

 

「当然のことながら、よく世界の子どもの学力比較がなされるじゃろう」

 

『ええ、世界の子どもに共通の算数のテストをしたら、成績は日本の子どもは上から何番で、というやつですね。国際比較のできる分野で、つまり理数系の分野でよく行われます』

 

「それそれ、それじゃよ。もしその国際比較で日本の小学生の成績がよかったら、あんたはどう感じるね」

 

『そうだな、悪いことだとは思いませんな』

 

「ひねくれた答えだな。正直に言いなさい。うれしいのじゃろう」

 

『ええ、まあ、正直に言えばうれしいです。ぼくもちょっぴり愛国的感情があるのかな』

 

「じゃが、日本の子どもは精神的に未成熟だと言われたら?」

 

『残念ですね』

 

「そこでじゃ。算数の成績はほどほどじゃが、日本の子どもは国際比較のうえで、自己中心的でなく、情緒的にも安定していて、パニックになりにくく、思いやりの心を持つ点で上位にあると言われたら、どうじゃろう」

 

『ぼくはその方を喜ばしいと思いますよ。学力より情緒の方を評価します。おそらく子どもは情緒的に不安定でも、成績さえよければいいと思う日本の親はいないと思いますよ』

 

「わしもそう思う。日本の親ばかりではあるまい。だがどういうわけかこちらの教育はずっと無視されてきた。理由はたった一つじゃ」

 

『情緒が数値化しにくいからでしょう。だから順位をつけにくい。順位による刺激を与えにくい』

 

「その通りじゃよ」

 

『でも、それだけの理由で、これほど長いあいだ、こちらの価値観が無視されてきたとしたら問題ですね。最近EQなどと思いつきで言う人が出てきましたが、まだ一般化するには程遠い状況です』

 

 そう答えながら、現代人の数値に対するこだわりは、ぼとんど病気と言ってもいいなと思った。

 すると老人はぼくのいらだちを静めるように言った。

 

「だが、二つの価値観を無理に対立させる必要はない。アクセルとブレーキを一度に踏むようなことはしなくてもいい。じゃが、たとえば算数の国際比較の発表のときに、(こっちの方は世界の上位でまことにおめでたいが、もし情緒的な安定性が計れるとしたら、日本の子どもはこちらでも上位にいけるでしょうか)とさりげなくコメントをつけるだけでいいのじゃよ。いわば数値化された価値観に陰をつけて意識させればいいのじゃ」

 

 それでいいのかな、ちょっと不安だったが、老人はそれでいいと言った.....。

 

(注)エモーショナル・クォーチェント。IQに対する概念として提案された、情緒指数とでも呼ぶべきもの。EQが高いほど情緒的に安定していると考えられる。

 

こころ医者講座

 

 病気を治して問題を解決しようとするのが精神科医で、話を聴いて本人の「こころ」を成長させて自分自身で解決させようとするのが《こころ医者》です。本来の精神科医はこの二つを兼ねなければなりません。

 

 全国の精神科クリニックの受診者の数字ですが、2005年にうつ病は92万人です。10年前は43万人、十年間に倍以上になったということです。うつ病が増えているのか、受診者が増えているのかわかりませんが、この他に受診を受けていない方もいるわけで、その後10年ですから、2百万人いるという人から6百万人いるという人までいます。

 精神科医の診療が3分間医療にならざるをえないことが分かると思います。3分間医療で満足できますか。「何処の精神科クリニックに行けばいいのかも分からない」という声もお聞きします。

 

 精神科医には医者しかなれませんが、《こころ医者》には、誰でもなれます。医者である必要はありません。他人の病気を治そうと思わなくてもいい、身近な家族や、友人の相談にのってあげればいいし、自分自身のこころの治療にもなるのではないでしょうか。

(2006年出版)

心の底をのぞいたら

 

 こころの仕組みを子供向けに分かりやすく説明してくれる本です。

 

 君にもこころがある。ぼくにもこころがある。そのことを君は一度だって疑ったことはあるまい。僕たちは、自分のこころの動きを感じながら生きている。喜んだり、悲しんだり、怒ったり、愛したり、憎んだりする自分のこころの動きなしに、君は生きることができるだろうか。君が、自分のこころの動きを感じられないのは、眠っている時ぐらいのものだろう。

 

 こころは、そのくらい、僕たちに身近なものだ。いや、身近なものどころか、僕たち自身そのものである。ところで、僕たちは、そのこころについて、どれだけ知っているだろうか。知っているように思っていて、ほとんど知っていないもの、それが自分自身であるこころだ.......。

(1971年刊行)

こころの底に見えたもの

 

 あまりにも不安が強いと、前向きになれない。それどころか、子供時代に戻りたくなりさえする。その結果、どうしても自立できない人間がでてきてしまう。

 

 あまりにも不安が強ければ、それを全部背負っていけというのは酷だろう。最近は、そういう不安を鎮めてくれるクスリができた。だから内科にかかる気分で、精神科にかかってクスリをもらうものも増えてきた。

 

 だが、病気の意味を考えたら、クスリに頼るだけでなく、不安と付き合えるように努力しなければいけないのだ。精神科医のほんとうに目指すのは、患者のこころを大人にすることだ。

 しかし、クスリがよく効くと、それに頼って努力をしなくなってしまうこともしばしばある............。

(2005年発行)

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